斜に構える頑固

日々思うことを綴る

社会的思考や判断が育まれるのがよい社会

 身体・脳など物理的な人間のピークは20歳過ぎだと言われている。運動の習慣やトレーニングをすることで、ある程度ピークを伸ばしたり維持したりすることができる。脳はパソコンのHDDをイメージするとわかりやすい。読み書き速度のピークが20歳過ぎで、60歳後半で容量が一杯になり痴呆が始まる。

 心・思考など精神的なものも同様で、25歳頃で固定するという。そこまでの生き方が重要で、善人は後も善人だし、悪人は後も本質的には悪人だ。これらは変わらないが、心を制御するとか環境に合わせた思考をするとか、いわゆる社会性をどのくらい身にまとえるかで表面上はいくらでも変われる。平行線にしかならない性善・性悪説の議論は、生まれたところを基準にしているのが問題で、25歳を基準にして個々の事例を見ていくと興味深いものとなろう。

 何か社会的な課題を考えるとき、自己中心である人、親族・友人・職場など自分と直接または間接的に接点のある部分集団を考える人、地域・国・世界を単位とする母集団を考える人、大まかこの3通りに分けられる。そして、普通はこの順で思考するし、ほとんどの人は自己中心であり母集団を考えられる人は少ない。これは個人の思考として本来だし間違っていないだろうが、前提条件である社会的な課題においては、逆の思考をたどる必要がある。そのため自己中心的な人は嫌われるし、部分集団で考える人は功利的だと敬遠される。

 現在の世の中は、この個人思考と社会思考を使い分けることができなくなっている。というよりも社会的思考力が衰えているのか。日本(母集団)はダメだという声が上がるのは当然である。目にするのは個人や部分集団のぶつかり合いばかりで、耳をふさいだり聞き流したりしないと参ってしまいそうである。実際多くの人はそうして上手に生きているのだろうが、それもまた社会を後退させる。