斜に構える頑固

日々思うことを綴る

刑罰のバランスはとれているか

                     

 子どもにまずごめんなさいをしなさいと教える。次にごめんでは済まなく、後始末が必要なことを教える。社会に、法律、慣習、道徳は必要不可欠である。

 ルールを違えたら謝罪し責任を取る。基本的なことだが、これは当事者間の問題であり、第三者が口を挟むのはおかしい。第三者としては、見守り、責任の取り方に対して評価し、後につなげるためにルールを修正するというように行動すべきだ。このため報道するということは重要なのだが、結果として評価なり修正なりが行われないのであれば、その意味は薄れる。

 日本は加害者に甘く、被害者に辛いようだ。被害者の報道にプライバシーがないと感じることが多い。実名報道は不要だし、会見外のインタビューもいらない。ましてや感情を乗せた報道は目を曇らせるので止めてほしい。反して加害者は保護される傾向にある。社会を構成している以上、その家族や職場にも法的過失はないが責任はある。刑事罰は報道されるが、民事罰を語ることはまれだ。極端かもしれないが、執行猶予の廃止や未成年犯罪に対する保護者への刑事罰導入ぐらいが必要に思われる。

 SNSや週刊誌に対する名誉毀損問題もおかしい。裁判により被害者としての立場が認められたとしても、被った損害が大きすぎる。刑事罰はないに等しく、民事の損害賠償もあまりに少額すぎるからだ。これではいつまでたっても誹謗中傷などの抑制にはならない。

 長い期間修正されない法律、判例主義に固執しすぎる裁判、人々の道徳観の変化などで、いろいろなバランスが大きく崩れているように感じる。社会を大きく変えることは難しいからこそ、日頃から微調整を繰り返すことが必要となる。さすがに法律遵守について世間は敏感だが、慣習、道徳に関しては、ずいぶんと薄まった世の中になってしまったように思う。後からまとめて手を加えるのではなく、日々手が加えられるようにしていきたいものだ。