斜に構える頑固

日々思うことを綴る

まずは1年続けた

 長らくアウトプットすることのない生活を送っている。そうすると、コミュニケーション力は衰える。特に説明下手になったと感じる。現在は人と接することの少ない仕事をしているし、SNSを利用することも稀だ。ネット上に書き込むこともほぼない。定期的に会う友人がわずかに存在することが救いと言えよう。

 もともと話すことが下手くそだった。多くの人と接すると、明らかに話の上手い人、下手な人というのがいる。上手い人は相手の気持ちに沿った対応や、欲しがっている言葉を返す。そこに自分の考えや話を広げる言葉などをそっと忍び込ませて会話する。そのため会話していて心地よい。相手8、自分2ぐらいで会話している。下手な人は説明が苦手な人である。自分の気持ちや考えをうまく伝えられないので、聞き手を選ぶことになる。特徴としては、言葉をやたら省略したり結論や返答をいつまでも言わなかったりする。

 私は後者である。反射的に発した言葉で失敗することがよくあったため、一呼吸置くことが多い。頭の中で考えたことをもっと多く口から発するようにすれば改善されると思っている。言うは易く行うは難しではあるが。

 伝えたいことをまとめる訓練として、毎週土曜日の午後に700~800字で文章を書いてみることにした。頭の中でまとめながら、さっと書けるようになるのを目標としたのだが、上手くいくものではなかった。最初に述べたいことと締めの文章を浮かべ、それに向かって書いていくスタイルだったのだが、伝えたいことが書けなかったり、全く違うことを書いていたり、真逆のことに着地したりもした。

 最終的には1,2分のスピーチをさっとこなせるフォーマットを持つことを目的としていたが、前の前の段階にいる。それでもとりあえず1年はと目標付けていたので、継続できたことを喜びたい。費やした時間に対して自分の成長が感じられないこともあり、一旦筆を置き定期的に書くことをやめることにする。

 最後に、どこからか迷い込み、目を通してくださった方々に感謝したい。

AIの作文は普通に使える

 「生きがいは、家族や友人との絆を育むことや、仕事での成果を通じた達成感、趣味や興味を追求する喜びなど、様々な要素によって形成されます。例えば、子供との時間を大切にすることで親としての生きがいを見出したり、自然との触れ合いを楽しむことで生命の尊さを感じたりすることがあります。また、社会貢献活動やボランティア活動を通じて他者の役に立つことに喜びを見出す人もいます。さらに、自己成長や学びを通じて新たなスキルを習得し、自己実現を果たすことで生きがいを感じることもあります。これらの経験や活動を通じて、人々は自己の存在に意味や価値を見出し、充実した人生を送ることができます。」

 ChatGPTで生きがいについて述べてもらった。自分に生きがいのないことは知っていたが、何一つ該当しないことに改めてへこむ。何かのめりこめる趣味でも探すとしよう。

 さらに800字前後の作文をさせると、もう少し文章が柔らかくなり、自分の考えを最後に付してまとめたら、10分程度でまずまずのものが仕上がった。いつもそれなりに時間がかかっているのが馬鹿らしくなる。

 AIの活用が当たり前の世の中になってきている。否定しようが嫌おうが構わないが、それは取り残されるだけである。ネット検索はAIを利用することで高効率となる。類似・重複の多い検索にうんざりしていたので、調べ物にはありがたい。文章や画像の生成には革新的なものがある。例えば、webページを作るときに最も時間がかかるのが、画像やロゴ、記載文章といったアセットの準備だ。この部分をAIで補うと、もはやレイアウトからプログラミングまですべてを提示させることも可能になる。

 今後パソコンを介して行うことはすべてAIで行い、それを実行し修正する能力が求められるだろう。そして完成させるまでの速度が最も重要となる。例えば、動画編集で求められるのは第一にスピード、第二に品質。修正が容易であることから、まず仕上げることが要求されるのだ。

刑罰のバランスはとれているか

                     

 子どもにまずごめんなさいをしなさいと教える。次にごめんでは済まなく、後始末が必要なことを教える。社会に、法律、慣習、道徳は必要不可欠である。

 ルールを違えたら謝罪し責任を取る。基本的なことだが、これは当事者間の問題であり、第三者が口を挟むのはおかしい。第三者としては、見守り、責任の取り方に対して評価し、後につなげるためにルールを修正するというように行動すべきだ。このため報道するということは重要なのだが、結果として評価なり修正なりが行われないのであれば、その意味は薄れる。

 日本は加害者に甘く、被害者に辛いようだ。被害者の報道にプライバシーがないと感じることが多い。実名報道は不要だし、会見外のインタビューもいらない。ましてや感情を乗せた報道は目を曇らせるので止めてほしい。反して加害者は保護される傾向にある。社会を構成している以上、その家族や職場にも法的過失はないが責任はある。刑事罰は報道されるが、民事罰を語ることはまれだ。極端かもしれないが、執行猶予の廃止や未成年犯罪に対する保護者への刑事罰導入ぐらいが必要に思われる。

 SNSや週刊誌に対する名誉毀損問題もおかしい。裁判により被害者としての立場が認められたとしても、被った損害が大きすぎる。刑事罰はないに等しく、民事の損害賠償もあまりに少額すぎるからだ。これではいつまでたっても誹謗中傷などの抑制にはならない。

 長い期間修正されない法律、判例主義に固執しすぎる裁判、人々の道徳観の変化などで、いろいろなバランスが大きく崩れているように感じる。社会を大きく変えることは難しいからこそ、日頃から微調整を繰り返すことが必要となる。さすがに法律遵守について世間は敏感だが、慣習、道徳に関しては、ずいぶんと薄まった世の中になってしまったように思う。後からまとめて手を加えるのではなく、日々手が加えられるようにしていきたいものだ。

世代背景の違いをふと思う

 80歳前後は、良くも悪くもまずは行動する世代である。物事を全体で考え、一様であることを好む。そこには常識が生まれ、1%を切るような異端な存在は排除する傾向がある。

 この子世代にあたる50歳前後は、行動しない世代である。親世代が動くためにその必要がなくなる。しかし、物事は伝播継承されるため知識は豊富だ。反抗心を持つものが多く現れて、考え方が2極化していく。

 孫世代にあたる20歳前後は、物事を知らない世代である。上の世代が動かないので物事が伝わらない。個々で思考・判断するしかなく、自然と多様化していく。そこでは常識がなくなり、大きな%を占めるような存在は解体されていく。行動力に関しては不明。

 偏見絡みの私の個人的な世代ごとの心象である。社会は各世代が混在しているし、世代にかかわらず素敵な人、尊敬できる人は多く存在する。時代背景による違い、特に物質的に満たされているかの影響は大きい。数的優劣はまだ上の世代にあるが時間の問題だ。生物として種の存続を考察すると、親世代の行動が適し、孫世代は滅亡前の様子に見受けられる。さらに5,60年先を考えると思考は親世代のものへと回帰していくだろう。そうやってぐるぐる回っていく。

 現実に50年先を考えて生きている人はいない。今を生きることで手一杯だし、せいぜい数年先までだ。将来どうなるかなんてわからないというのが本音である。しかし、上に立つ人間には先を考えてほしい。

 30年後は、一千万人からなる巨大都市と、沿岸部に存在する数十万人からなるコロニー的な都市群で二分する。前者は、孫世代を中心とする近未来型社会。後者は、1次産業とその加工および電力供給に特化した親世代のような社会を築く。このような都市構造を予想してみた。あなたはどちらに住みたいか。

第一印象に流されないようにしたい

 初見で他人に偏見を持ってしまうことが悩みの一つである。当然ながら、それを口にしたり、態度に表したり、差別するようなことはない。風貌や印象にとらわれず、常にフラットに接するように心がけている。あくまで自分の心の中の話である。

 優しそうな顔、怖そうな顔、いい顔、悪い顔。性格や生き様は顔に出ると考える。この手の話題を酒の肴にするとなかなかに盛り上がる。人相学や観相学というものが構築されるのも頷ける。占いのたぐいだという人もいるが、それよりは現実的に思う。私の経験だと、高齢であればあるほど間違わない。文字通り年輪を刻んでいると言える。反面、20代はそうでないことがしばしばだ。

 職業も顔つきに影響するということを聞いたことがある。私も子どもの勉強を見ていた頃は、先生の顔つきをしていると何度か言われたことがある。芸能人は多くがいい顔に見えるし、政治家は多くが悪い顔に見える。あくまでそう見えるだけで答え合わせはできないし、他人の中身など知りようがない。私がアルバイトを雇ったとき、上司に今の人は良くない目をしているから注意しろと言われた。その人は2日で辞めてしまったのでどんな人間かは分からなかったが、上司いわく、経験上目を見ればわかるという。

 eスポーツが流行らない理由が色々言われている。今は知らないが、初期の頃はサングラスやマスクで顔を隠す人が多かったし、ゲーム外でもプレイヤーネームを使い本名は使わない。これを見て日本では難しいなと思った。スタートラインを自ずから下げてしまっていたのではなかろうか。

 歳を重ねるにつれて第一印象などによる偏見は大きくなっていて、まずはそれを拭い去る作業が必要になる。実際に、はじめましてと挨拶する機会はそれほど多くないが、私がファーストコンタクトで最も気をつけていることである。

集団の動く向きを変えることは難しい

 定期的に浮上する政治と金問題。今回はどのような変化をもたらすのか。国民の多くが望むであろう、金に汚い政治家の排除は不可能である。根本となる法律の建付けがそうだからだ。とかげの尻尾切りが行われて終りとなる。90年代に政治と金が騒がれて改正された政治資金規正法は、成立後穴だらけだと言われた。昨今の報道内容のような状態になることは、当時から予想されていた。その上、政党助成金という不必要なものまで導入された。政治は代表者個人々々が行うもので集団が行うものではないと考える。議論の効率化や政治の迅速化のために存在する政党を否定する気はないが、今の政党はおかしい。同じ方向性を持ったもので結成するのが党なのに、自民党に右派だの左派だのが存在するのが大間違いである。日本も2大政党にしてしまい、派閥や現在の少数政党が本来の党の役割として働くようになれば、少しはましになるのかも。今回の一件は逮捕者云々ではなく、これにどう対応していくかが重要である。

 集団化したものに個人の力ではどうしようもない。それがわかっているので本当に優秀な者は政治家にはならない。民間でも企業に所属したりせず、自ら起業し集団を形成していく。おかしくなった集団は解体していくほかない。歴史上、国が滅ぶなど、時代区分が変わるほどの大きな変化が起こるのはそういうことだ。

 ビッグモーターやダイハツは、どちらも会社として存続すること自体が問題である。認可を完全に取り消してしまえばよい話。大企業であればあるほど、解体したときにそれを拾おうとする人間は多く、一新されることは我々に利をもたらすだろう。しかし、業界としては外部の人間に拾われることを嫌う。ここで、もう一つ大きな集合が悪い方に作用する。

 定期的に集団を解体し再構築するような流れが起こる世の中になればおもしろいのだが。

今年の課題はまず行動すること

 新年や年度替わりなどに、抱負や決意、目標などを求められることがある。学校ではお決まりだ。先のことを考えずに生きているわけではないが、おぼろげだ。やりたい事を思いついても、しなければならない事に時間を取られ、なおざりになってしまう。浮かんだことをなんとなくで終わらせずに、具体化しておく。最初にやることだけでも決めておくとよい。抱負や目標を定めるとはそういうことだが、やり方やコツを指導されることは少ない。くだらないと思っていたが、案外大事な作業である。

 長らく「動く」ことを課題としている。面倒くさがり、出不精、自分の性格もあり、どうにも一歩目を踏み出すのが遅い。周りにいるすごいと思う人の共通点が行動力にある。決定から行動にタイムラグがない。むしろ、方向付けが決まった段階でもう行動していて、その中で思考・決定していくぐらいである。

 世の中の殆どのことは、誰しもの思考の範疇である。行動し実現できるかの違いだけだ。ただ、この部分は学校では教育しないし、資格・制限・利権などの障壁も多い。運動、芸術など突出した能力を必要とするものでなければ、誰でも可能性はある。この行動し実現する方法を学ぶのが勉強である。

 タイピングを練習するとき、打鍵スピードにこだわりすぎるのは良くない。指の動きには限界があるので、ある程度のところで漢字変換の効率化や手の止まる時間をなくす訓練に切り替えるとよい。空白の時間なくすように心がけよう。

 日常生活で、掃除をしなければと感じたら、すぐ動く。この本が読みたいと思ったら、すぐ読む。必要なものができたら、すぐ買いに行く。連絡がいるなら、すぐにする。それだけのことだ。これにより空白な時間、曖昧な時間が削ぎ落とされる。放って置くと、結局やらなかったりつけが回ったりしてくる。簡単なようで、私には意識しないとなかなかできないことなのだ。