斜に構える頑固

日々思うことを綴る

地震直後のライブ配信の様子

 地震発生時、こたつに入って本を読んでいた。ふと気づくと横の窓がガタガタ鳴っていて、それが2,30秒続いた。ボロ屋なので、道路の大型車との共鳴や少し風が強い日には始終のことなのだが、このときは無風で車もない。強烈な違和感と何とも言えない嫌な感覚が同時にあった。歳のせいか、原因不明のことや気になることがあると解消するまでモヤモヤが消えない。私の住む地域は震度2を計測していたが、ゆれは感じなかった。

 情報収集はテレビやラジオとなるのだが、昨秋折れたポールの修理を先延ばしにしていて、アンテナは庭に転がっている。PCを開くとおおよその震源と規模が把握できた。文字情報よりも映像を見るほうが早いので、ライブ配信の同時接続数の多いところをまわってみた。

 はじめにアクセスが集中するのはweather newsだ。常時ライブ配信していることが浸透しているのだろう。続けて地震速報の24時間ライブに集中する。地震計の情報などをひたすら流している。これらの次に、震源近くのライブカメラ3カ所の視聴が増えた。これが発生直後のベスト5だ。ゲームやエンタメ配信が次々に停止していく。災害時の配信は格好の炎上案件である。1時間経過すると、上位は日テレ、TBS、テレ朝の順となり、weather news、フジ、地震速報、ライブカメラと続く。日テレやTBSはヤフーニュースからの流入が大きいのだろう。

 そういえば、ネット上のNHKの存在感たるや。最大の情報源はスマホだ。アクセス集中にも強くなってきているし、多くの人が肌身離さず持っているというのに。

 個人配信者で雑談配信に切り替えるものが散見された。落ち着くようにとか、非常時の対応についてとか、不安ならコメントで会話しようとか呼びかけていた。視聴者には単身者も多いだろう。人の声をきくことやコミュニケーションをとることで得られる安心感も大きい。普段はどうしても彼らを斜に構えてみてしまうのだが、なかなかどうして。

気づけばうちのネコも老いたものだ

 猫と1人プラス1匹で暮らしている。子猫の引き受け手になったり、野良が住み着いたりで、4匹目になる。今の猫は2歳で家に来て現在13歳になる。保護猫の飼い主がペット禁止の物件に越すことになり、困っていたところに出くわした。

 飼い方は放任で、トイレは庭に何箇所かあるようだ。常に土足で出入りしているわけだが、足を汚してくることはほぼない。日常的に爪とぎを使ってくれるのだが、それでも襖や柱にある程度の爪痕は残る。生まれが野良なので、小鳥、ねずみ、ゴキブリなどを見つけると捕食するし、夏場のセミは好物のようだ。肉も魚も人の食物は口にしないが、鰹節と海苔を食べるところは流石である。ペットフードも決まったものだけで、違うものには見向きもしない。1度変更したことがあるがずいぶんと苦労した。餌は好きなだけ与えているが必要な分しか食べない。過食気味な私は見習いたいところである。

 そんな彼女も少しずつ痩せてきていて、撫でると骨ばって感じるようになった。食事の量は変わっていないので安心だが、力は落ちている。一飛で登っていた塀に、塀を蹴ってワンバウンドで登るようになり、今ではかろうじて届いた両前足を引っ掛けて、体を無理やり持ち上げて登る。猫は老化や死というものを認識しているのだろうか。私は彼女より長く生きる必要があるし、5匹目は飼わないと決めている。

 人の命に関してはタブーなところがあるが、自然に任せるのがよいと考える。食が細くなり肉が落ち痩せていく。最後は食べ物を取らなくなり眠りにつく。最近は薬漬けのせいで重い死体が多いと聞く。延命治療には反対である。そうでなければ同時に安楽死も認めて良いと思う。善悪問わず終活ビジネスは盛んだし、人の死にはお金がかかりすぎる。多くの金が集まるところはろくでもない。生死に関しては間口を広く考えることと、金が集まらないようにすることが肝要だろう。

スーパーでふと思う

 レジ袋有料化に反対だった。しかも、その先があるのかと思っていたら何もなかった。肉や魚はトレイではなくフリーザーバッグのようなものにするとか、不要な個包装をやめるとか、同一商品の過度のラインナップを減らすとか。

 カット野菜や食材をある程度まとめて冷凍。弁当もおかずを冷凍して提供し、ご飯や味噌汁は別売。フードロスも減るし、今の冷凍食品の需要を考えると、安価提供できればスーパーやコンビニにこのような商品が増えるかも。

 経済上、物価の上昇は仕方のないことである。値上げは悪のような風潮もあり、誤魔化していたことに問題がある。物価上昇が価格に反映されないように、内容量を調整する。構成割合を調整する。調達先を変更する。販管費を削る。企業努力といえば聞こえはいいが、某戦争や為替のせいにして価格転嫁を怠ってきたという落ち度はあまり論じられない。経済力のない私には、急激な物価上昇は厳しいものがある。

 やたら高圧的な客を目撃してふと思った。

 「お客様は神様です」という文句が嫌いだった。というよりも、客側の態度が好きではない。接客側の心構えを表したものとして優秀で、一昔前に比べて種を問わず接客は素晴らしくなっていると感じる。対して、される側の態度は昔から変わらない。もちろん一部の人達のことであり、その割合に変化がないということである。これは業種などの差も大きい。コンビニ、ファミレス、携帯ショップなどは悪客率が高そうで、店員さんの待遇を向上させるべきだと常々思っている。客側も神様として自分の態度を見直し、悪い神様にならないようにしてほしい。

 社会は分業である。小売が横並びで販売を拒否したら、食事もままならず生きていくことはできない。キャッシュレス社会が成熟し、販売拒否のブラックリストが作成されて決済不能者が出現し、金はあるけどものを買えない人々が生まれるかもしれない。それもまた興味深い。

内閣支持率の報道で思ったこと

 割と以前から内閣支持率の調査は行われていたが、近頃は煽りすぎている感が否めない。調査頻度を上げているのだろうか。値が低ければ内閣改造や国会解散を持ち出し、高ければ首相や与党のお手柄のように報じる。メディアの素材制作の一環なのは承知しているが、発足時と会期末程度でよいのではないか。報道で扱うのであれば、政策ごとの賛否であったり、多数の意見や少数でも光るものを取り上げてみたりと、それこそ高頻度でやっていただきたい。どうしても選挙後の国民は指を咥えて見ているだけになってしまう。LGBTマイナンバーカードのように疑問を感じる政策煽りもあるが、支持率にしてしまうと全肯定か全否定のようになってしまうのでよろしくない。首相に至っては、芸能人の好感度調査のようである。

 ヤフーのトップに内閣支持率の項目を作って、デイリーでクリックできるようにすれば最高に煽ることができよう。ヤフーニュースのみんなの意見やコメント欄は、良い取り組みだと思うが、現実とネット上ではところどころ隔たりや違和感を覚えることが多い。現実は全集合でネットは部分集合である。

 標本調査というのは、サンプルの取り方を適切に行えば、思っている以上に少ない数でも正確なものが出てくる。精度や誤差の定義で多少変わるが、視聴率調査が900世帯で誤差が±2%、2700世帯で±1%である。メディアのアンケートで調査対象を述べることが増えてきているのはよいことだが、結果に目がいき、そこに言及する人は少ない。アンケート結果に誤差率を併記して数学的な裏付けを示すと、その信頼度がわかって良い。

 「〇〇年後に日本はあると思いますか」というアンケートを取ってみたい。数字の部分を何通りか用意しておく。具体的な数字を問わないところもポイント。豊かさ、幸せ、安心感などを測る最良の指標となり得ると思う。

物忘れが多いのでメモをとっていただけ

 私はメモ魔のようである。買い物にはメモを取ってから行くし、机横のボードには常にTo Do リストが貼ってある。仕事でも事あるごとにメモしていたし、伝達もメモ紙を添えて行うことが多かった。

 電話横にメモ帳をおいている人も多いのではなかろうか。携帯電話になって直ちにメモをとれなくなったのは、少ないマイナス要素の1つだ。メモにスマホアプリも利用しているが、1画面で完結するシンプルなものにしている。スケジュール管理が必要な生活をしているわけではないし、複雑多量となってそこに時間をかけることになれば、もはやメモではない。そこまでいけば紙の手帳に軍配が上がる。

 数年前までは、卓上日めくりカレンダーを使っていた。コピー用紙より少し厚い紙で、裏にはメモ用に罫線が引いてあるものだ。夜寝る前にめくり、その紙の裏にするべきことやしたいことを優先順位の高い順に箇条書きにする。毎日のことなので、いつまでたってもなくならないものもあるが、併せて翌日の行動を頭の中でシュミレーションすることになっていた点はプラスに働いた。

 特に仕事や学習では、思考の書き出しを定期的に行ったほうが良い。目的・目標・手段を1つのユニットとする。目的は1つで、これが達成できればそのユニットは破棄終了する。目的を達成するための目標は複数でもよく、並列していても目標の下に目標があってもよい。手段は各目標に向かう具体的な方法で、目標の下に枝付する。目的と目標は混同しがちだが、各自が定義してほしい。目的が2つある場合は別のユニットを組むようにしよう。同じ事柄でも、目的にするか目標にするかで変わってくる。

 たまにこういう思考を行うことで何か発見できれば嬉しいものだ。

 日本の政治を見ると、目的・目標・手段がはっきりしていない。これらを示すだけで政治不信は大きく改善されると思うのだが。できない何かがあるのかと更に不信感が増してしまったり。

高校時代に勉強について言われた二言

 「数字と法律を勉強しておきなさい」

 将来何をするのかわからないときに、社会に出たときに身につけておいて損はないからと言われた一言。数字とは、大きさの感覚を掴んでおくこと。ここから50km先はどの地点ですか。日本の人口、自分の住む地域の人口は何人。水100kgはどのくらいの量ですか。80坪はどのくらいの広さですか。このような量に関する質問を子供にしてみると、突飛な答えが帰ってきて面白い。大人はそうだと恥ずかしい。あと、経理に関する知識を身につけておくこと。数字といえば帳簿のことだ。

 法治国家である以上、法律を知っておくのは当然だと思うのだが、現実的ではない。道徳として身につけておけばよい。自分が何をするのか決まっているのなら、関連するものに目を通しておきたい。ここでは法律そのものよりも、法的手続きを知っておきなさいということを意味する。必要となる免許・資格について。登記手続きの方法。会社を設立できますか。裁判をすることができますか。この種の事柄は、士業と呼ばれる人たちに投げることが多いが、あくまで彼らは補助する立場でサブである。メインであるあなたは、概要であり全体の流れなりは知らなければならない。

 「勉強ができることと仕事ができることは別だ」

 社会人によく聞かされた。職種や、自発か受け身かでまた違ってくる。前者は自分でも評価できるが、後者は周りの人たちの評価である点が大きく違う。自分の感覚と異なることなどしばしばだ。それでも、勉強のできる人のほうが、仕事のできる確率が高いことは事実だろう。

 周りの大人に何を勉強したら良いか尋ねると、たいてい学校で学習する内容ではない答えが返ってくる。しかし、学校で勉強することを否定する大人は極めて少ない。

 私個人は、「紙と鉛筆が使えるように、パソコンは使えるようにしておきなさい」と、30年間言い続けている。

ことばについての愚痴を少々

 何でもかんでも「かわいい」で表現することが女性や若者を中心に流行った。本来そうでないものも含め、この一語に多様な意味をもたせる。当時は苦笑いする人が多かったが、現在はほぼいない。

 「推し」という言葉が広まった。ファンという言葉を拡大したもので、ちょっと好きから熱狂的まで段階を問わないし、自分の嗜好のアピールから相手への推薦をも含蓄する。「エモい」という語を使いだした人はすごい。感情に触れる事象に使える言葉で、感情を表現する形容詞全てに代替可能である。語彙力の低い者にとってはありがたいだろうが、言葉の集約化は人に悪影響を及ぼす気がする。100年後の会話を聞いてみたいものだ。

 「障がい者」という表記が気に入らない。何より美しくない。害という漢字がよろしくないのであれば、昔使われていた碍という字に戻せばよろしい。一度否定したものを再度肯定することができないのは、この国最大の欠点の一つである。

 私は「重複」を(ちょうふく)、「依存」を(いぞん)と読む。正しくは(ちょうふく・いそん)で、慣用的に(じゅうふく・いぞん)が用いられる。誤用であれ世間に広く浸透すれば、そうではなくなり両者が混在することもしばしば。時代とともに言葉が変化していくことに抵抗はないが、誤用が散見されるようになった段階で「本来はこうですよ」という発信がないことに引っかかる。正誤を示すことなく、行き着くところまで行ってから「どちらもOKです」という姿勢が気に入らない。

 誰もが一つくらいは引っかかる言葉があるのではないか。最近は「一段落」を(ひとだんらく)と言うのに違和感を覚える。

 敗戦後8年強に及ぶ占領政策の影響は大きい。ふつうに言論統制がかかっていたし、敬語の廃止や英語教育への方針が示されていた。時間の経過した現在でも、教育・出版・映像分野に残る日本語軽視の影はなかなか消えてくれない。