斜に構える頑固

日々思うことを綴る

ミニマリストな私はこれをすすめない

 祖父の部屋にはテーブルとソファーがあり、ソファーの後ろの壁一面が書棚であった。父と仲が悪かったため顔を合わせた記憶は2回ほどだが、小さいながらも書棚に興味を惹かれた記憶がある。

 両親ともに実家から遠く離れてアパート暮らしだったため私物がなかった。父が本棚に数十冊の本を並べている程度だ。成長過程でそこにあるものに目を通すようになる。私は推理小説や科学パズルの本を好んで読んでいた。数冊あった漫画も見たし、簿記はこの書棚の本から学習した。歴史書囲碁将棋の本には興味を覚えなかったようだ。今なら歴史書も拝読したいものだが。

 90年代の音楽に詳しい子がいた。本人が生まれる前なのだが、母親がCDをたくさん所持していて、車の中でいつもかかっているそうだ。当人もよくCDを持ち出して聴くという。中学生の女の子でものすごいゲーマーがいた。父親がゲーム好きで、家に大量のソフトとハードがあるという。格闘、RPG、シューティングと男子顔負けである。小学生で麻雀が打てる子がいた。家に全自動麻雀卓があるそうだ。

 私は2度の引っ越しで多くのものを処分した。書籍、漫画がそれぞれ300冊程度。CD、DVDなどのディスク類が500枚、音楽テープ100本、ビデオテープ300本。CDはパソコンに取り込んだものの、本やCDは中古ショップに売り、それ以外はゴミとして廃棄した。25年前のことである。以来、一切物を貯めないようにしているのは、後悔の表れなのだろう。

 ミニマリストという言葉を耳にすることがあるが、単身者の僻みや妬みのようなものにしか感じられない。いろいろと物を持つことで、家族・子供・友人などを少し豊かにしてあげることができるかもしれないのだから。

ネット利用にふと思う

 現在の首相を支持しますか。原子力発電に賛成しますか。マイナンバーカードはどうですか。女系天皇は。沖縄基地問題大阪万博、EV、税のあり方などは。はい、いいえの質問で10項目並べただけで、1024通りの回答がある。一様ではなく偏りは存在するだろうが、1億人にアンケートを取ると0になる回答はないだろう。選択式でこうなのだから、意見を求めたら文字通り千差万別だ。一般的に、人という生き物は自分の考えることが正しいと思い込むし、都合のいいように解釈する。徒党を組むと更にひどい。事実を捻じ曲げたりもする。誤りを修正することすらできなくなることもしばしば見受けられる。個人個人がそのあたりをしっかり意識して他人の考えを聴くようにしてほしいものだ。

 インターネット空間では、個人の思考・趣味などあらゆる方向のベクトルが自由に飛び交っている。これが長所であるのだが、このままではごみの山である。各サイトがいかにフィルターをかけたり、同方向のベクトルを集めたりできるかが鍵だと思う。古くは巨大掲示板まとめサイトというフィルターがかかることで、多くの人に周知された。ニコニコ動画は公式とそれ以外の分類、適度なジャンル分けとタグ付けなど、うまくベクトル分けできていた。サーバーやUIなど別の問題はあったけれども。最近のサイトは、プラットホームを提供し人集めに奔走するとか、ネット上から網ですくい上げたものを並べているだけとかが多い。ニュースサイトは相変わらず新聞のかわりとまでは行かないし、YouTubeも自分の中では新陳代謝がなく視聴時間は減少傾向にある。

 ネット利用が、ECサイト・映画などの実用と調べ物をするためのものに固まってしまった。これだけでも十分なのだが、何か新しい気づきがほしいと最近は思う。

少子化も他人事な社会

 少子化を改善するにはどうすればよいか自由に答えなさい。と質問されたときどのように答えるだろうか。直感的にひらめいたのは、60歳以上で子育てに直接関わっていないものを全削除すれば間違いなく変わるという考えだ。似たようなことをメディアで話して炎上していた識者がいたが、一思考として頭に浮かぶ人は案外多いと思う。生物として考えると子孫を残していくことが第一で、子を作らないものや育て終えたものは系として不必要な存在であり、去るべきである。また、系をなす個体数が減少すると自然と増加に転じていく。減少し続けるものや増加し続けるものがどうなるかは言うまでもない。この観点で見ていくと、ヒトというものがどれほど不自然なものか認識されられる。

 ヒトの社会ではこの削除というものはタブーである。思考以前に、倫理の名のもとに却下され発言も許されない。犯したものが炎上するのは必然で、当人も自覚してのことだろう。ただ、良し悪しや真偽は別の話で、思考するときにはこのような壁を作るべきではないのである。

 子供を成し育てているものが社会のあり方を選択し、そうでないものはサポートする。これが本来だと思うのだが、現実は全より個の社会が形成されつつあり、後者の人数が勝るため社会システムは歪んでいく。しかも、システムの歪みを修正することはこの国が最も苦手としていることである。

 私は出生率の低下よりも内訳の方が気になる。一人っ子の割合が急増しているのだ。経済面、精神面ともに理由は理解できる。子供の数が減るのは構わないが、一人っ子の世帯はなるべく減らす方向に動いてほしい。かつて一人っ子は色眼鏡で見られていた。その理由を考えてほしい。10年後では遅い。常に将来形成されうる社会を想像して思考してほしいものだ。あと、そこにいじめや差別があったわけではないことを追記しておく。

洗濯機を買い換えるべきか迷って1年

 うちの洗濯機は31年目を迎える。ことの発端はごみ取りネットが破れたことにある。検索してみると、糸くずフィルターという名称で販売されていた。30年間使えていたことにも驚きだが、破れるまで部品を交換するという発想に至らなかった点が残念。この部品は洗濯機の要だと思っている。汚れも酷くなってきていたし、もう少し早く知っていればよかった。

 ネット販売の一般化に伴い、この種の部品を購入しやすくなったのはありがたい。ガスコンロのバーナーキャップとグリルの網、瞬間湯沸かし器のノズル、エアコンのフィルターなどを買ったことがある。灯油缶のキャップが割れたときは、100円ショップに売っていた。意外と需要があるものなのですね。車の給油口の蓋が歪んできて開閉に支障をきたすようになったことがある。このときはオークションサイトで買って付け替えた。

 洗濯機を買い替えたときのメリットは、電気代が安くなることと静音性が高くなることだ。しかし、洗濯機はすでに完成された機械で劇的に変わるわけではない。やはり壊れるまではと二の足を踏んでしまう。ドラム機なら別物なので話が変わるが、私には高額すぎる。やはりしばらく様子見になりそうだ。

 7,8年前にエアコンを買い替えたときは劇的な変化だった。これは30数年ぶりの買い替え。2年前に、石油ファンヒーターをやめ石油ストーブにした。ファンヒーターはセンサー類がおかしくなっていて、だましだまし使っていた。これは97年製だった。

 最近、新しい製品を使うことがエコのような風潮があるが、ものを長く使い続ける方がよい。製品の開発製造から使用期間、廃棄方法までトータルして比較してほしい。20年同じ車を乗るのと、その間3,4台を乗り換えるのとの違いはどうだろう。あと、家電リサイクル料と古い車の税金も見直そうよ。

好不況は音楽にも現れる

 学生時代に、誰でも音楽に興味を持つ時期があると思う。私の場合、歌唱は音痴でだめ。演奏は楽器に触れる環境もなくMIDIで少し遊んで終了。そして鑑賞のみとなる。部屋の片隅にSANSUIのアンプとDIATONEのスピーカーがころがっていると言えば、年配者にはニヤリとしてもらえるだろう。

 音楽への接点は、日常生活で耳にするタイアップ曲から始まるのは今も昔も変わらない。特定のアーティストに興味を持ち、他の曲を聞き、また他のアーティスト、他のジャンルへと枝葉を伸ばす。オリコンチャートや音楽雑誌をめくっていたのが、ネット検索に置き換わる。ネットは目当てがあるものには強いが、ランダムには弱い。レコード店レンタルショップをぐるりと回るあの探索に近いものを生み出してほしいものである。ジャケットのみをタイル状に並べてみせるサイトはひと目で多くのタイトルを見渡せて良かった。

 音楽チャートがジャニーズとAKBで埋まる期間があった。それも予想以上に長く続いた。メディア等発信側はトレンドに寄せてくるため、邦楽は細い幹1本の状態となる。この頃の若者は狭い音楽にしか触れられていない気がして、可哀想に思っていた。現在はそこから枝が伸びてきた状態だが、サブスクによる袋小路に陥っている。何十万曲と謳っていても、画面に表示する量には限界があるし、おすすめ機能により同じものをぐるぐる回されてしまう。目に触れるアーティスト数がアナログ時代より少なく感じる。80~90年代が葉の生い茂った頃だった。今聴いてもレベルが1段上に思う。音楽があの頃のように盛り上がることを願う。

 邦楽(pops, rock, metal)、洋楽(米英)、ジャズ、クラシック、アニソン、ゲーソンと雑多に音楽を聴いてきた私も、you tubeで音楽メドレー、作業用などと検索してBGMにしている昨今である。

社会的思考や判断が育まれるのがよい社会

 身体・脳など物理的な人間のピークは20歳過ぎだと言われている。運動の習慣やトレーニングをすることで、ある程度ピークを伸ばしたり維持したりすることができる。脳はパソコンのHDDをイメージするとわかりやすい。読み書き速度のピークが20歳過ぎで、60歳後半で容量が一杯になり痴呆が始まる。

 心・思考など精神的なものも同様で、25歳頃で固定するという。そこまでの生き方が重要で、善人は後も善人だし、悪人は後も本質的には悪人だ。これらは変わらないが、心を制御するとか環境に合わせた思考をするとか、いわゆる社会性をどのくらい身にまとえるかで表面上はいくらでも変われる。平行線にしかならない性善・性悪説の議論は、生まれたところを基準にしているのが問題で、25歳を基準にして個々の事例を見ていくと興味深いものとなろう。

 何か社会的な課題を考えるとき、自己中心である人、親族・友人・職場など自分と直接または間接的に接点のある部分集団を考える人、地域・国・世界を単位とする母集団を考える人、大まかこの3通りに分けられる。そして、普通はこの順で思考するし、ほとんどの人は自己中心であり母集団を考えられる人は少ない。これは個人の思考として本来だし間違っていないだろうが、前提条件である社会的な課題においては、逆の思考をたどる必要がある。そのため自己中心的な人は嫌われるし、部分集団で考える人は功利的だと敬遠される。

 現在の世の中は、この個人思考と社会思考を使い分けることができなくなっている。というよりも社会的思考力が衰えているのか。日本(母集団)はダメだという声が上がるのは当然である。目にするのは個人や部分集団のぶつかり合いばかりで、耳をふさいだり聞き流したりしないと参ってしまいそうである。実際多くの人はそうして上手に生きているのだろうが、それもまた社会を後退させる。

 

NHKにはもはや不満しかない

 最近は通帳を手に取ることがなくなった。収入はネットバンクに入金し、必要に応じて各銀行に振り替える。手数料無料の範囲で行っているし、銀行もスマホアプリが充実していて照会も簡単だ。明細出力機能のない銀行もあるので、たまに記帳する必要がある点に不満が残るぐらい。

 支払いに目を通すと、家や車など保険関係がそれなりの額になるが削れるものではない。最近はサブスクリプションサービスへの出費も馬鹿にできない。私は映画視聴でも読書でも波があり、ものすごくお得な月もあれば、数ヶ月利用していないこともある。付き合い方が難しい。

 類似するものとしてNHK受信料が目にとまる。しかも衛星契約だ。これには不満しかない。私のテレビ視聴時間は、全局合わせてもここ半年で1日あたり15分未満である。いろいろ話題に事欠かないが、必要性は認めるところである。金額さえ適正だと感じることができれば、不要論とかでなく、番組内容であったり関連企業のあり方であったり、議論が建設的になろう。

 愚痴をこぼそうと思ったら、10月から受信料が少し下がるそうだ。目眩ましに過ぎないが、やらないよりはましか。特殊法人であり、普通の企業と同等に考える必要はない。貸借対照表の剰余金は0でよい。プラス計上される限り受信料はどんどん下げるべきだ。税金と合わせて徴収すれば、徴収手数料を削減し更に料金を下げられる。また、その資産も国民全体のものといえる。関連会社の利益も国民に還元されないと筋が通らない。NHKオンデマンドも気に入らない。受信料で制作した番組を視聴するのに、再び料金を取ることに納得がいかない。受信料を払っている人には無料提供で良いのでは。

 インターネットプロバイダーの接続料金に文句を言う声は聞かない。携帯電話料金が高くて文句を言う人もいなくなった。これがどういうことか考えてほしい。