斜に構える頑固

日々思うことを綴る

言葉の乱れは国の乱れ

 「服装の乱れは心の乱れ」という言葉があった。学校教育で用いられたもので、賛否の分かれる言葉である。順位付けされる教育で、平均以下に位置すれば反発心も湧くもので、学校に関して否定から入る人は想像よりもはるかに多い。学校から切り離して考えると、規則を守らないのは良くない、社会の大勢に反する人には注意が必要だ、などという意であり、否定される言葉ではない。接客業や冠婚葬祭で服装を乱す人間には疑問だし、入れ墨を露出する人間や改造車両には近づきたくない。

 乱れといえば、最近は日本語の使い方が気になる。特に敬語がおかしくて、やたらと「れる」「られる」の受身形を用いたがる。これは戦後に敬語廃止の方針の中、尊敬語の形としてゴリ押ししてきた成果であり、受身か尊敬かの判断により異なる意味を持ってしまうので、なるべく使用は避けたい。また、「させてもらう」「させていただく」を謙譲語としてよく耳にするが、使役の意味合いを強く感じてしまい違和感が拭えない。思わず「私は許可していませんが」とツッコミたくなる。変にこねくり回したりせずに、前に出てくる名詞に「お」や「ご」をつけるだけで、自然と「お~になる」「お~する」という立派な敬語になる。これを意識するだけで言葉遣いは随分と変わります。

 最高敬語など、使用頻度の低い日本語を排除しようとする意図も気に入らない。頻度が低いからこそ、必要なときにはしっかり使ってほしい。敬語は日本語の要で、ここを崩せば全体が歪んでいくだろう。以前に比べ、文語、口語、TPOによる使い分けが怪しくなってきているように見受けられる。

 ことばは自然と変化していくものだ、生き物だ、という意見もあり、私もそうだと思う。しかし、文科省・国語審議会からマスメディア、そして国民へと、不自然な操作があることも併せて知っておくべきだ。